― 会社情報 ―
沿革

1966 ~

建設資材リース・レンタル業を牽引する存在として発足。

1966

1966年8月(昭和41年)

日建リース工業創設 

1966(昭和41)年8月、日本の建設のために資材をリース・レンタルする会社を目指して、日建リース工業(株)が創設された。昭和40年代初頭は、リース・レンタル業の黎明期であり、さまざまな分野で事業を手掛けようとする起業家が現われ始めて群雄割拠の様相を呈していた。

だが、関山は仮設資材の賃貸業に、自信を持っていた。かつて東京オリンピックの建設ブームが去ると、大量の建設資材が放置されたり、廃棄されていた。また、大規模な工事を共同で請け負うJV(ジョイントベンチャー=共同企業体)の現場では、各社独自の仮設資材を均等に使うことができず、新たに購入した仮設資材は工事が終了すると、その処分はJV事業者にとって頭の痛い問題となることを、何度も目にしてきた。

日本人の「借りる」ことへの抵抗感は確実に薄れていく、「持てる」時代になれば、モノに対する人々の満足度も「所有」から「利活用」へと移行すると考えていた。日本のリース・レンタルの時代を切り拓いていかねばならないという義務感さえ感じていた、と振り返る。

1966年9月(昭和41年)

第一工場開設と法人化 

1966(昭和41)年9月、武蔵野の面影を深く残す東久留米市に、資材を管理する工場を開設した。お茶の木を抜き、地ならしし、“掘っ立て小屋”と呼んだ方が良いような粗末な建物であったが、ここから「第一歩が始まる」という意味を込め、「第一工場」と名付けた。そして、1967(昭和42)年11月、個人営業で経営していた日建リース工業を法人化する。『日建リース工業株式会社』誕生である。

1972

1972年(昭和47年)

大石寺の仮設資材購入 

創業して7年目、仮設資材を供給するリーディング・カンパニーとして日建リース工業の存在は、建設業系に広く知れ渡るようになってきた。そこで、静岡県富士宮市に建立された大石寺の工事に使用された仮設資材の買い取り依頼が、大成建設(株)を中心としたゼネコン6社JVより持ち込まれる。「10億円相当の資材の保有は、可能か?」創業メンバーを逗子に召集し、未来を賭けた“買い物”実行の意思統一が図られた。JV側の3億円を超える金額提示に対し、正攻法で真正面から勝負を挑み、最終的に2億円で購入することができた。10億円規模の仮設資材の保有は、日建リース工業(株)にとって大きな転換期となる。飛躍的に業績が伸び、全国展開へ向かう基盤ができた。

1976 ~

資材保有高100億円を突破。大きく成長を遂げる。

1976

1978

1978年12月(昭和53年)

東京機材センター設立 

昭和50年代に入り、資材保有高100億円を突破するなど業績は着実に伸びていた。業績の良い時だからこそ、次代への布石となる新規事業を模索していた。基幹事業のノウハウを応用させ、顧客のためにあらゆる物品・備品をレンタルして提供するという事業が考えられた。建設現場で必要とされる事務所用のユニットハウス、オフィス用備品、事務用消耗品、冷暖房設備などは、工期が終了すれば不要となり、必ず顧客のニーズに応えられるはずである。
1978(昭和53)年12月、東京都千代田区平河町に新会社『(株)東京機材センター』を設立した。“備品の設置サービス”など、顧客の要望に応えるさまざまな付帯サービスは評判となり、業績は徐々に伸びていく。
1979(昭和54)年埼玉県加須流通センター、1981(昭和56)年東京・東久留米に東京流通センター、1985(昭和60)年北関東支店と横浜支店を開設し、また、同時期に全国各地にも機材センターが設立されていった。

1980

1980年(昭和55年)

積極的な技術開発 

昭和50年代後半、高架コンクリート道路や橋梁工事の分野で画期的な技術として、「ガーター工法」が注目される。ドイツで生まれた技術だったが、日建独自の改良を加えて、工事の効率を大幅に高めることに成功する。更に、『ペコガーターV800』『スーパーペコガーターV2000』という建設資材の開発へとつながるが、資材だけでなく“技術も貸す時代”を見越し、積極的に技術開発に取り組んでいく。

従来、図面は製図機を使い、強度計算は手作業で行われていたが、コンピュータを使った図面作成システムという高度な技術開発に挑み、富士通と共同で“三次元CAD設計システム”の開発を始める。

1984

1984年6月(昭和59年)

軽仮設リース業協会設立 

軽仮設リース・レンタルという日本初のビジネスモデルは、社会に根付き、“軽仮設リース業界”が形成されてきた。1972(昭和47)年に設立された、関東地区の同業者の親睦団体KL会を母体として、更に全国の同業各社に呼びかけ、業界の存在感を示す全国ネットワークの必要性を説いた。同じ危機感を持つ全国の同業52社が参加を表明。1984(昭和59)年6月19日、「任意団体・軽仮設リース業協会」の設立総会が催された。初代会長に就任した関山は、「軽仮設リース業界が結束し、協調を固め、相互繁栄の精神に基づいて、責任を全うしたい」と挨拶した。建設業界においてリース・レンタルの依存度が高まる中で、当該官庁や建設業界へ働きかけ、価格と安全性、品質とのバランスが取れた「業界標準規格」をつくりあげた。建設物価に見合う積算やコスト算出が適正になされ、不当なダンピングが抑えられれば、業界全体が健全化し、軽仮設リース業の更なる発展を目指すことができる。

安全マニュアルの策定など、着実に成果を上げていった協会は、1992(平成4)年3月31日付けで社団法人の認可を得ることとなる。

1986 ~

バブル経済崩壊の中、総合備品レンタル業へと邁進。

1986

1987

1987年6月(昭和62年)

各機材センターの商号を『レンタコム』に変更 

日建衛材リース(株)の設立以降、ハウス関連用品やオフィス用備品、更には音響映像機材、放送機材、監視カメラシステム、測量機器といった、さまざまな商品のリース・レンタル業が展開されてきた。新たに取り扱うこととなったレンタル商品の大半は、顧客とのコミュニケーションの中から生まれた需要といえる。人とのコミュニケーションこそが事業発展のカギを握ると考え、“レンタコム(=レンタル+コミュニケーション)”という新ブランドを立ち上げた。仮設資材以外の分野で発展が期待されるこの事業を、日建リース工業とともに、グループの二大看板として育てていく方針を固め、仮設資材以外のリース・レンタル業に『(株)レンタコム』という社名を用いることとした。1987(昭和62)年6月、東京機材センターをはじめ、各地の機材センターは、“レンタコム”の名称を冠し、グループ多様化への礎となる。レンタコム社内報として、『Winner’s Road』(勝者の道のり)を発行する。

1993

1993年6月(平成5年)

総合備品レンタル業として日建衛材リースとレンタコムを統合 

バブル経済の崩壊により、建設業界は厳しい事態に直面していた。1993(平成5)年6月、ハウス関連の『日建衛材リース(株)』と事務機器・家電等備品の『(株)レンタコム』を統合、新たな『(株)レンタコム』が誕生する。レンタル基本料の切下げ・売上げの鈍化・経費の高騰化という状況下において、経営戦略を見直し、建設業界向けの総合備品レンタル業として、トータルセールスを行うことの有効性、合理性を鑑みた組織改編である。

1996 ~

物流事業と介護事業が稼働。新世紀を歩み始める。

1996

1996年(平成8年)

三次元CAD設計システムを構築 

オイルショック以降、建設業界では仮設資材調達のアウトソーシングが進む中、足場の図面を描いたり強度計算のできる仮設技術者も少なくなっていた。そのため、図面計算のノウハウの提供も求められるようになる。CADを使った二次元設計は、当時ゼネコンでも導入されていたが、日建は三次元による図面作成に挑み、富士通(株)様と共同で“三次元CAD設計システム”を構築する。大手ゼネコンも熱望する革新的なシステムであり、その開発により、確かな技術と安全を建設業界に提供できる実力を示すことができた。

三次元CADシステムは、何度か改良が加えられ、ソフトウェアとして市場に流通した。特許を取得しなかったため、商品としての利益を生むものではなかったが、この三次元CADシステムの正確な積算は、途方もないビジネスチャンスにつながることになる。本四架橋建設のような大きな公共工事において、工事計画の段階から仮設計画の積算を任されるケースが増え、計画から参加することで、施工業者に左右されることなく仮設資材の供給を日建リース工業が担当することができた。

2001

2001年(平成13年)

物流事業への本格参入 

2001(平成13)年、蓄積したレンタル業のノウハウを活用できると考え、総合物流レンタル業参入の検討を開始した。物流トータルの市場規模は40兆円規模といわれ、そのうちレンタル業は2兆円程度。顧客の幅が広く、非常に有望だという結論に達した。

2002(平成14)年、物流機器事業部を新設、営業活動をスタート。

2003(平成15)年、日建リース工業内に物流機器事業本部が発足し、東京、京浜、関東の各事業部、更には名古屋、仙台、大阪などの支店内事業部によって全国規模での本格運営を開始した。本社事業本部内に設置されたSC(システム&コンストラクション)開発事業部では、物流レンタルサービスの新しい形として蓄冷剤や凍結防止剤のレンタルとともに、「紛失防止システム」を開発した。また、LPS(ロジスティックスパッケージシステム)事業部では、単にラックやパレットをレンタルするのではなく、倉庫全体のレイアウトをはじめ、顧客の業種に合わせた物流機器の提供をするとともに、売り買い戻しシステム等、多岐にわたる契約システムによるパッケージレンタルというサービスを開始した。

2001年8月(平成13年)

『レンタコム』は福祉介護専門のリース・レンタル会社に 

2001(平成13)年8月、本格的な介護事業を開始する。介護用ベッドや車椅子・リハビリテイメントマシンなどさまざまな福祉商品を、全国40カ所のストックヤードから供給する体制を整えた。更に消毒や保管・管理などケアサービスにも進出。各支店・営業所には福祉用具専門相談員資格取得者を配置し、利用者が相談しやすい体制をつくり上げた。更に配送・組み立てに携わる現場のドライバーの教育など、常に清潔で安全な商品を提供できるように徹底的なマニュアル化、システム化を図った。介護関係のレンタルを充実させ、良い品を安く使えるようにできれば、より大きな社会貢献ができる。異業種への参入であるにも関わらず、これまで培った経営資産を最大限投入して実現することができた。

2006 ~

第二創業期の始まり。1000億円企業に向けた地盤固め。

2006

2006年(平成18年)

第二創業期のはじまり 

2004(平成16)年に発令された「新経営戦略21’」における“次世代への完璧な経営計画・経営体制の構築”は順調に進められ、続く2005(平成17)年も必達を期し、あらためて“基本方針四大原則の徹底”を具体的な方針として打ち出して、創業40周年となる2006(平成18)年を迎えた。

この年は大きな転換点であった。同年3月、創業から今日の発展を支え続けた関山恭子会長夫人が他界した。同年4月20日社葬として、臨済宗建長寺派大本山建長寺・龍王殿にてしめやかに執り行われ、恭子夫人の多大なる貢献を讃えた。

同年9月24日、40周年を迎えるに当たり、関山正は会長から最高顧問に、関山正勝は工場本部長から専務取締役に就任し、社内改革を宣言した。経済的・効率的な資源の活用と環境の保全を実現する手段としてのレンタル業の有用性を再認識し、職場の意義と価値観の確立を目指して社員の「心の教育」に尽力し、安全管理を徹底したより良い職場環境を創ることは、創業以来繰り返し唱えてきた経営哲学の再確認といえるが、同時に新たなステップへ踏み出したことを示唆するものであった。

2011

2011年1月(平成23年)

日建リース工業・レンタコムの合併の決定と組織改革の実施 

世界経済の低迷とともに、国内経済も建設投資額40兆円割れという厳しい状況が続いていた。「厳しい未来はすでに実現してしまっている」という認識を確りと持ち、組織改革を進めることで、更なる「革新」を目指し、日建リース工業(株)と(株)レンタコムを2011(平成23)年1月1日をもって合併することを決定した。

合併に合わせ、2010(平成22)年から2011(平成23)年にかけ、組織改革を実施した。新部署として、プラント営業部、リニューアル営業部、橋梁事業部、関東運搬事業部を設置した。各支店における責任と評価を明確にし、建設向けレンタル事業が厳しい状態であれば、市場性に適合した別の事業を推進できるように、その指揮権を各支店長のもとに集約するとともに、個社戦略、リニューアル営業、プラント営業、エコパレットなどの戦略的拡販を目指す。

2011年3月(平成23年)

東日本大震災/東日本大震災復興の対応 

前述のとおり、新たな日建リース工業(株)がスタートしたが、同年3月11日、東日本大震災が発生する。未曾有の大災害は、仙台工場に壊滅的な被害を与えた。その後、福島原子力発電所の事故など、東北地方だけでなく日本全国に大きな影響をもたらすこととなった。東日本大震災により、宮城県名取市の仙台工場は壊滅的被害を受けたが、同年4月、すぐに代替工場として仙台大郷工場と仙台愛島工場を開設、既存の涌谷工場とともに3工場として、東北地域への供給体制を取った。大郷・愛島の避難ヤードの劣悪な環境での作業は、被災後1年以上続いた。同年5月、ストックヤードとして機能していた岩手県・釜石工場を再開し、日建片桐リース(株)とタイアップして重機・レンタカー・発電機などを取り揃え、被災地の復興支援対応を開始した。

一方、被災した仙台工場の復興工事も着工した。2012(平成24年)9月、完成した「仙台工場・流通センター」は、東北の復旧・復興事業の要求に応えるべく2千3百坪の備品棟を備え、「不屈の工場魂」を実現し、震災復興事業に大いに役立てる工場として期待された。東北地方復興事業には、一定期間は大きな公的予算や民間資金が投じられることとなり、それにともない、建設業界も一時的に活性化し、レンタル機材の需要が大幅に増加した。

2012

2012年9月(平成24年)

関山正勝社長就任 

厳しい経済環境と国内外の先行き不透明な時代、2012(平成24年)9月24日、困難を乗り越え希望に満ちた未来創りを託され、関山正勝新社長が誕生する。社長としての使命として、「日建レンタコムグループの経営理念に基づきレンタルを通して大いなる社会貢献をなすことと、会社に関わる皆様の幸せの創造を目指すこと」を挙げ、組織刷新を図り、“新体制で四事業日本一への挑戦”を目指し、5カ年経営戦略を掲げた。

四事業では、「仮設事業は日本一を維持継続する。ハウス・備品事業は価格下落に甘んずることなく、更なる成長を目指す。介護事業は、介護市場の拡大を上回るスピードで事業を成長させる。レンタル化が3%の未開拓市場の物流事業は、レンタル志向を定着させシステムを構築する」という目標を示した。また組織機能強化戦略として、「①欠品ゼロ工場戦略 ②予測購買戦略 ③創造主義人事戦略 ④WEB・展示会営業戦略」を掲げた。

2013

2013年(平成25年)

海外事業拡大戦略(ベトナム・ミャンマー・上海) 

国内空洞化と内需減退予測にともない、N・I・Aのレンタル事業をきっかけとして、更なる海外展開を図る。2013(平成25)年には、日本人の若者の職人離れが進む中、ベトナムより3人の鳶職研修生を迎え、図面作成事業だけでなく、現場の鳶人材の国際調達を模索。更にミャンマー人を3人雇入れ、図面作成事業でのミャンマー展開の準備を推進。同年2月、ホーチミン支所を開設し、地下鉄工事の受注体制を構築。また、今後の輸入開発のため、中国上海に事務所を開設し、国際化を推進する。

2013年(平成25年)

自社開発緊結式足場『ダーウィン』の生産開始 

工事用足場としてシェアを拡大している「くさび緊結式足場」は、従来の「枠組足場」と比較し、運搬・組立・解体効率が格段に良く、仮設工業会での基準整備により需要拡大へとつながっている。今後も業界№1を維持し発展していくために、創業以来初となる次世代足場の自社開発に着手した。自社開発緊結式足場『ダーウィン』の最大の特徴は、従来製品と比較しパイプの太さが12%細くなり、強度を維持したまま軽量化したことにより、現場作業の省力化・資材原価の抑制ができ、自社開発ゆえに現場のニーズを柔軟に取り込めることである。開発開始から20回余の試作を繰り返し作り上げた自信作は、2013(平成25)年、遂に量産体制に入る。

2013年8月(平成25年)

武蔵工場No.1プロジェクト完遂、本格稼働 

2013(平成25)年8月6日、CS世界一を目指した仮設工場の竣工式を迎えた。建設構想から2年。首都圏を見下ろす奥武蔵の高台、埼玉県飯能市に敷地面積4万5千坪(東京ドーム3つ分相当)、総工費28億円をかけて完成した。『武蔵工場№1プロジェクト』と称し、工場本部を中心に、総力を挙げて開設準備を進めてきた。目指したのは『世界一の仮設工場』と『CS(顧客満足度)業界№1』。『欠品ゼロ工場』の実現は組織機能強化戦略の中でも一番の肝いり施策であり、武蔵工場の稼働開始にともない、首都圏エリアの資材引当、配車効率が飛躍的に改善されることが期待される。初代武蔵工場長は、世界一の仮設工場を預かる重責に緊張しながらも、「人と環境に優しいこの武蔵工場では、常に笑いが絶えない明るい工場にしていきたい」と抱負を語った。

「安全と安心と安定提供を№1の自信と誇りを持って提供します」を合言葉に、夢の仮設工場は10月1日本格稼働した。

翌年3月、仙台工場が東日本大震災の壊滅的被害を乗り越え、リニューアルオープンした。

2016 ~

創立50周年を迎える。事業の多角化で新たなステージへ。

2016

2016年9月(平成28年)

創立50周年 

2016(平成28)年9月24日、東京・品川のグランドプリンスホテル新高輪にて、創立50周年記念会議と記念祝賀会が執り行われた。全国から日建レンタコムグループ社員・関係者、1,300名余りが一堂に会する、盛大な式典となった。記念会議は、壇上には『五尽の問で、100年続く「幸せの創造」企業になろう』という横断幕が掛けられ、創業者精神唱和により幕が開いた。関山正勝社長は、舞台上の大スクリーンを駆使して各部門の目指す途を示し、50年先を見つめた事業構想を全社員に向け発表した。関山正会長からは、日建レンタコムグループの歩んだ50年に感謝しながら、「『基本』を大切に、覚悟を以って『今』を生き、天命を果たすべく、『幸せの創造』企業100周年に向けて歩んでいこう」というご講話があった。記念祝賀会は、会場を移し、立食形式での和やかな雰囲気の中、式次第が進められ、最後に“1000億円企業へ向けた決意”を込めた手締めが行われ、終幕となった。

2017

2017年8月(平成29年)

魚活BOX事業開始

建設仮設資材・ユニットハウス及びオフィス備品・物流パレット・介護用品と、4つの強固なレンタルビジネスモデルを確立させた日建リース工業は、さらなる発展を目指して事業フィールドの拡大を図る。狙いを付けたのは、水産業界だ。2017年8月に開催された国際水産関連見本市で、日建リース工業は「魚活BOX」を発表した。

自社開発した魚活BOXは、魚を眠らせることで生きたまま安全に輸送を可能にする。これにより、種類の異なる魚を運べるだけでなく、動き回る心配がないため一度に多くの魚を輸送でき、輸送コストの削減につながる。低温を維持する一般的な輸送をコールドチェーンと呼ぶのに対して、生かした状態(活魚)で生産-蓄養-輸送-消費までの一連の流通網を「ライブチェーン」と名付けた。

2019年2月(平成30年)2月には、大阪府泉佐野市に「大阪活魚センター」を開設。泉佐野漁港で水揚げされた魚の蓄養と輸送拠点を築くと、一般の料理店への出荷を開始する。開所式で関山は、「人材不足や排他的経済水域などの問題を抱える水産業界だが、まだ成長の余地はある。ライブチェーンを日本で確立して、さらに世界にも流通網を拡げていこう」と世界を見据えた構想を語った。

2018

2018年5月(平成30年)

障がい者農園事業開始

建設現場のニーズに合わせてさまざまなタイプの仮設足場を次々と開発してきた日建リース工業では、旧式となり需要がなくなってきた足場が工場を占めるようになっていた。これらの足場をただ処分するのではなく、社会貢献に活用できないか。そう考えた関山は、ビニールハウスに着目。ビニールハウスの骨組みに足場を利用しようというのだ。さらに、その農園のスタッフに障がい者を採用することを思い付く。2018年に法定雇用率が2.0%から2.2%に引き上げられたが、多くの民間企業が未達成であることが問題になっていた。雇いたいが働く場を提供できない企業、働きたいが就職先のない障がい者。双方の課題を解決するため、2018年5月、埼玉県飯能市に障がい者の就労支援を行う施設「はーとふるネクスト」、さらにそこで身に付けた農業技術を活かす職場として「はーとふる農園」を開所。企業が雇用した障がい者を受け入れることで、雇用元の民間企業は法定雇用率の確保できるだけでなく、障がい者にとっては収入の安定化につながる仕組みだ。2021年4月(令和3年)には神奈川県愛川町に2つ目の農園「はーとふる農園愛川」を開所。日建リース工業の障がい者支援は続いている。

2019

2019年12月(平成31年)

大阪・道頓堀にて鯛専門活魚料理店「鯛夢」開店

ライブチェーン構想の拠点のひとつとして開所された大阪府泉佐野市の大阪活魚センターから北へ約35キロ、天下の台所の大阪の中心・道頓堀に鯛専門活魚料理店「鯛夢」をオープン。集客の呼び水として活魚の魅力を飲食店にPRするだけでなく、インバウンド市場での需要を計るための実験的な事業でもあった。ゼネコンやメーカーとのお取り引きが中心のB to B企業である日建リース工業が、なぜ店舗や訪日外国人をターゲットにした事業に乗り出したのか。「どんな巨大企業もB to Cの考え方を基本としている。消費者やインバウンド市場での需要に応えられる企業態勢を早くから整えておく必要がある」と関山は説明する。

2020

2020年10月(令和2年)

三保サーモン養殖場完成

日建リース工業の水産業界への進出は加速する。静岡市清水区の三保半島の地下海水を汲み上げ、トラウトサーモン「三保サーモン」を陸上養殖する施設、三保サーモン養殖場を完成させた。地下海水に着目した日建リース工業が、東海大海洋学部と共同開発し、市や静岡商工会議所なども連携して事業化。アニサキスが寄生することがなく、大量の地下海水を供給することで臭みのないサーモン養殖を成功させた。これにより、販売(活魚センター)、流通(魚活BOX)に関わってきた日建リース工業は、ついにサプライチェーンの川上である生産(三保サーモン養殖)まで行きついた。

11月30日には、同センターに地元自治体や団体、企業関係者を招いた内覧会を開催。翌2021年12月(令和3年)には販売を開始。静岡子清水区内のホテルで行われた記者会見には多くのメディアが集まり、地元の活性化に対する三保サーモンへの期待値の高さが窺えた。その後も、地元の小中学生や専門学生たちが訪れる見学会は毎回多くの人が集まり、地元ローカルテレビに定期的に取り上げられるなど、三保サーモンの認知度は静岡を中心に少しずつ広がりを見せている。

2021

2021年7月(令和3年)

国際的スポーツイベント開催

お台場ビーチバレー会場の仮設スタンドをはじめ、馬事公苑など多くの会場に機材を納入。国際的スポーツイベントの盛り上がりに貢献した。また、メインスタジアムとなった新国立競技場の建設にも携わり、建設中には日建リース工業の足場材がスタジアムを覆った。