ケアマネ朝比奈 第一話

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朝比奈美鈴
「ケアセンターさくらの杜」に勤務する若手ケアマネジャー。
まっすぐな性格で、利用者と家族の想いを受け止めようと日々奮闘している。仕事への情熱と責任感が強く、時に自分を追い込みすぎてしまう一面も。
人の痛みに寄り添う優しさと、信念を貫く強さを併せ持つ女性。
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真田光杉並区にある介護ショップに勤める福祉用具専門相談員。
表情は穏やかだが、仕事における判断は的確で妥協を許さない。
利用者の生活に密着した提案に定評があり、冷静かつ現実的な視点を持つ。
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美田明菜「ケアセンターさくらの杜」に勤めるケアマネジャーで、朝比奈の同僚。
仕事では明るく快活、周囲からの信頼も厚い。内面には、朝比奈への複雑な感情と、恋愛をめぐる微妙な距離感を抱えている。
仕事も恋も妥協しない、芯の強い女性。
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第一話


デスクの上には複数の書類と、厚生労働省の通達を印刷した一枚の紙。
その一文――「福祉用具貸与における品名およびTAISコードの記載義務化」が、彼女の脳裏に重たくのしかかっていた。
窓の外、まだ膨らみきらぬ桜のつぼみが風にゆれ、陽を受けて微かに輝く。けれど美鈴の瞳に、その光は届いていなかった。
「……こんな大事なことなのに、詳細な説明が来るのはいつなんだろう……?」
彼女は静かに呟いた。声はかすかだったが、その眉間には確かな焦りと不安が刻まれている。

しばし沈黙のあと、美鈴は手元のスマートフォンを取り上げ、画面を何度かタップした。そして、連絡帳の中からある名前を選び、電話をかける。
「……もしもし、真田さん。お忙しいところすみません。今、少しだけお時間いただけますか?」
受話器の向こうから、落ち着いた男性の声が返ってきた。
「ええ、大丈夫ですよ。どうかされましたか?」
その日の夕方。
杉並区内にある福祉用具レンタル事務所の一角。天井から落ちるオレンジ色の照明と、床の木目が温かく空間を包む。展示されている車椅子、ベッド、手すりなどが静かに佇むなかで、美鈴はグレーのストールを羽織って立っていた。
そこへ、真田光が姿を現す。少し驚いたように目を細めたあと、ニッコリと笑って軽く会釈する。
「朝比奈さん、お待たせしました。」
「いえ、こちらこそお時間取らせてすみません。」
二人は展示場の片隅にある相談スペースの丸テーブルに腰かける。周囲には他に来訪者もなく、話し声は木の壁に優しく吸い込まれていった。
「実は……」と、美鈴が通達を取り出しながら、机にそっと置いた。
「気がかりなことがあるんです。来月から、品名とTAISコードの記載が義務になると。ですが、それ以降の細かな手順や、現場への指針が、未だに降りてきていません。」

真田は資料に目を通し、少し眉を上げた。
「なるほど……確かに、我々福祉用具の事業所にも詳細は伝わってないんですよね。」
「仮に、今のまま四月を迎えて、直前に何らかの処理が必要になったら、事務作業で混乱するんじゃないかと思って。」不安から言葉の最後が微かに震えていた。真田はそれに気づいたのか、いつになく真剣な表情で頷いた。「そうですね。我々も他人事ではありませんので、福祉用具の事業者連絡会や福祉用具供給協会とか厚労省から何か新しい情報がでてないか調べてみます。」
「本当に、助かります……」
その夜、真田は自宅のダイニングテーブルにノートパソコンを広げ、メールを複数送信した。件名は「【緊急確認】福祉用具貸与に関するTAISコード記載義務化について」。翌朝から、彼の電話は何度も鳴った。だが、返ってくる声はどれも似たようなものばかりだった。
「最初に通知が出てからそれっきりですね。 その後、新たな情報は無いですよ。」
「TAISコード? そんな通知があったような気もするけど、それからは区からも何も指示は無いですよね。」
「事業者連絡会でも特に話題になってないと思いますよ?」
「いつもの事ですけど、正式な指示が来るまで待つしかないでしょ。」
行政から指示が来ない限り手の打ちようもなく、緊急性があると認識している事業所は少ないようだった。しかしながら美鈴が不安を感じているように万一のこともあり得るため、どうしたものかと美鈴に報告へと向かった。
「関係各位に話を聞きましたが、皆さんいつもの事だとあまり心配されてないようですね。
ただし場合によっては、膨大な事務作業が発生して現場が混乱することも無いとは言い切れません。新たな通知が下りてくるまで待つしかないとは思いますが・・・」

美鈴の気持ちに寄り添って話す真田の声にも、普段にはない焦燥が混じっていた。美鈴は静かに頷きながら、しばらく何かを考え込んでいたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「いろいろと調べていただいてありがとうございました。でもやっぱり心配なので、区役所に行って相談してみます。」
「でしたら私も話を聞いてみたいので、同席してもよろしいですか。」
「ありがとうございます、是非お願いします。……あ、美田さんも呼ぼうかな。彼女も話を聞いた方がいいと思うので。」
翌日。杉並区役所、高齢者福祉課。
面談室には、三人の姿があった。朝比奈美鈴、美田明菜、そして真田光。美田は資料のファイルを手に、やや緊張した面持ちで椅子に座っていた。
「……普段は気にならないけど、改まって話をするとなると、ドキドキしますよね。」
「大丈夫ですよ。私たちが不安に感じている事や現場の皆さんの様子を伝えるだけだから。」
と、美鈴が穏やかに応じる。
対面に座る担当者は、初めはどこか歯切れが悪かった。
「うーん……厚労省からの通知は確かにありますが、まだ詳細が下りてきてなくて、実務手順についても……これからというか……」
だが、美鈴たちの不安や各事業所の反応、過去の細々とした法改正時の現場の混乱、万一の際に想定される事務作業の増加や国保請求での不備発生の可能性等を丁寧に説明すると、担当者の表情が徐々に変わっていった。
「……確かに、直前の通知でいつも現場は混乱されてますよね。それから区への相談が急増することも多いですし。」その一言に、美鈴たちはほっと胸をなでおろした。
「では、厚労省や東京都に詳細を確認して、次回のケアマネジャー向け集団指導会でこの件の説明の場を設けましょう。」
帰り道、区役所の前に広がる並木道。
早咲きの桜がいくつか、やわらかく花開いていた。
風に揺れる花びらを見上げながら、美鈴が小さく微笑んだ。
「ありがとう、美田さん、真田さん。二人がいてくれて、本当に心強かった。」
「いやもう、あの場でしゃべるの、内心ドキドキでしたけどね〜」
と笑いながら、明菜が口を尖らせる。
「いつものことだけど、厚労省も東京都も、もっと早く詳細を教えてくれるとありがたいのにね」
「いつもギリギリで、最終的に現場が混乱しないように対応するのは、お二人のようなケアマネの皆さんですもんね。介護業界では、全体をコントロールして混乱を防いでいるケアマネジャーさんは、影のヒーローですね。」と、真田が片手を胸に当てて芝居がかった動作をしてみせた。
「それ、ちょっと古いドラマみたいですよ?」と明菜が吹き出し、三人の笑い声が春風に乗って、道いっぱいに広がっていった。





