ケアマネ朝比奈 第三話

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朝比奈美鈴
「ケアセンターさくらの杜」に勤務する若手ケアマネジャー。
まっすぐな性格で、利用者と家族の想いを受け止めようと日々奮闘している。仕事への情熱と責任感が強く、時に自分を追い込みすぎてしまう一面も。
人の痛みに寄り添う優しさと、信念を貫く強さを併せ持つ女性。
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真田光杉並区にある介護ショップに勤める福祉用具専門相談員。
表情は穏やかだが、仕事における判断は的確で妥協を許さない。
利用者の生活に密着した提案に定評があり、冷静かつ現実的な視点を持つ。
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第三話

五月の空は気持ちよく晴れ渡っており、新緑の合間を爽やかな風が通り抜けている。
午前九時、朝比奈美鈴は手帳を開いて今日の予定を改めて確認しながら、真田光の到着を待っていた。木々の葉が風に揺られてサワサワと小さく音を立てている。
古い木造家屋の門扉の前で、美鈴は少し背伸びをして、道路の向こうからやってくる人影を見つけた。
「おはようございます、真田さん!」
「おはようございます、朝比奈さん。すみません、お待たせしてしまいましたか?」
真田は控えめな笑顔を見せながら、手に提げたカバンからアセスメントの際に使用する顧客ファイルやメジャーなどを取り出して準備を始めている。少し色褪せたメジャーは使い込まれて彼の手に馴染んでいる。

「私が少し早く着いてしまっただけなので、大丈夫です。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ」
二人は門を開け、キィ、と軋む音を立てて中に入った。
家の中は少しひんやりしていたが、清潔に整えられていた。玄関の上がり框でスリッパに履き替えていると、吉田様が廊下の奥にあるリビングからゆっくりと姿を現した。

「朝早くから、ご苦労さまねぇ」
「いえいえ。今日はお身体の具合と、お家の中の動線を確認させていただきますね」
美鈴はにこやかに応じたが、吉田様はすでに眉間にしわを寄せていた。
真田はその視線をそっと受け止め、柔らかい声で尋ねた。
「最近、立ち上がるときや歩くときに、不安を感じる場所はありますか?」

「......玄関の段差、それからね、廊下を通って脱衣所までがちょっと怖いのよ。壁に手をついているけど、ツルツルしてて滑るの」
女性は手をゆっくりと振って見せた。
真田は頷きながら、その指の震え具合も見逃さなかった。
廊下に移動し、吉田様が実際に歩く様子を観察する。ふらつきながらも慎重に一歩一歩進むその姿に、美鈴は胸が締め付けられる思いだった。
「玄関、廊下、寝室、脱衣所......やっぱり、連続した手すりが必要ですね」

美鈴が静かに呟くと、真田も図面に赤ペンを走らせながら答えた。
「そうですね。ただ、この廊下の長さが微妙で......レンタル手すりだとかなりの数の組み合わせが必要になるかもしれません」
美鈴が唇を噛んだそのとき、吉田様がぽつりと口を開いた。
「でもね、あの、よくある突っ張り棒の手すりは嫌なの。なんだか“囲まれてる”気がして、気が休まらないのよ。ほら、病院みたいでしょ?」
美鈴が返す言葉に詰まっていると、真田がすっと前に出た。
「なるほど......それでしたら、ちょっと提案があるんですが──」
彼は手帳の白紙のページを開き、その場でさらさらと手摺の形を描いて見せた。

「レンタルの手すりだけでなく、住宅改修で手摺を取り付けることも可能です。このタイプの手摺なら、壁に直付けもできますので視覚的な圧迫感も少なくなります。色も壁の模様に合わせて選べますので、まるでインテリアの一部のように自然なんですよ。それに、必要な長さに自由に調整できて、コーナー部分でも色々なジョイント部材がありますので、柔軟に対応できます」
「......ほんとに、そんな風にできるの?」
吉田様は不安げながらも、少しだけ表情が緩んだ。
「はい。実際の見本もありますので後日持ってきます。納得してから設置しましょう」
美鈴は思わず真田の顔を見た。その横顔には、確かな自信と、利用者への誠実な思いが滲んでいた。
数日後。 心地よい風が吹き抜ける午後、真田は再び吉田様宅を訪れた。その手には、前回訪問時に作成した図面を基にした提案書と一緒に、実際に握って質感や太さを確認できる手摺見本、色合いを確認できるカットサンプル等が入った大きなバッグ。改めて一つ一つ詳しく説明し、僅かでも疑問や不安が残らないように、吉田様が納得されるまで見本やサンプルも活用してご提案を行ったことで、成約の運びとなった。

さらに数日後。
事前申請も滞りなく区役所から承認も無事に下り、いよいよ手摺取付工事日を迎えた。真田は施工担当の職人に設置箇所や手摺の高さ等を細かく確認し、一つ一つ丁寧に取り付けを指示していく。水平器で角度を確認しながら、壁紙とのバランスも考え、ネジの位置まで微調整した。
「......よし」
最後の固定を終えたとき、玄関から廊下、脱衣所まで、一本の線のように滑らかに続く手摺が完成していた。吉田様がそっと手を添える。

一歩、また一歩。
ぎこちなさはあるが、これまでよりも明らかに足取りが安定している。
そして、廊下の途中でふと立ち止まり、彼女は真田の方を振り返って、優しく微笑んだ。

「ありがとう。あなたが来てくれて、本当によかったわ」
真田は思わず、胸の奥が温かくなるのを感じた。スマートフォンで手摺に掴まって歩く吉田様の姿を一枚撮り、すぐに美鈴に送信した。
その頃、朝比奈美鈴は事務所で業務を終え、自転車にまたがったところだった。スマホが震える。
写真と一言が届いていた。
「無事に設置完了しました。サイズもぴったりで、歩行もスムーズでした」

写真の中の要介護者の笑顔に、美鈴は自然と口元をほころばせた。
「よかった! 感動しました!」と返信すると
数秒後、真田からの返信が来た。
「私もです。ありがとうございました」
美鈴は頷き、自転車をこぎ出した。
柔らかな風が頬を撫でる中、胸の奥がぽっと温かくなっていた。
信頼とは、こうして一つずつ、積み重ねていくものなのだと──彼の言葉が、心にしみていた。






