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仕事と恋の間で
2025.11.15
福祉用具
歩行器
手すり
シルバーカー
第十話 里美の決断

人物紹介
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安達里美杉並区高円寺の福祉事業所「ケアプランセンター愛」に勤める若手ケアマネジャー。
経験は浅いが、利用者や家族に真摯に向き合い、日々奮闘している。悩みや葛藤を抱えながらも、誰かの「ありがとう」に救われる繊細で誠実な女性。 -
藤森友和利用者の暮らしに寄り添う、福祉用具専門相談員。現場経験が豊富で、誠実な対応と丁寧な説明に定評がある。
穏やかな物腰の中に、まっすぐな情熱を秘めた人。安達にとって、仕事の支えであり、心の支えにもなっていく存在。 -
三鷹巧福祉事業所「ケアプランセンター愛」で働く、安達の同僚。明るく社交的で、会話のテンポが軽快。人懐っこく、誰とでもすぐに打ち解けるタイプ。自信家な一面もあるが、根は優しく気配り上手。
第十話
里美の決断

その夜、安達里美は、
罪悪感と戸惑いのはざまで、静かに揺れていた。
イタリアンレストラン「モンテロッソ」は、渋谷の喧騒から少し外れた、落ち着いた空気を纏う隠れ家のような店だった。
アンティパストの生ハムとベビーリーフの皿が運ばれてきた頃、安達はすでに心のどこかで、自分が背伸びをしていることを自覚していた。
普段は立ち食い蕎麦やコンビニおにぎりで済ませる日々。だが、今日は違った。
罪悪感と戸惑いのはざまで、静かに揺れていた。
イタリアンレストラン「モンテロッソ」は、渋谷の喧騒から少し外れた、落ち着いた空気を纏う隠れ家のような店だった。
アンティパストの生ハムとベビーリーフの皿が運ばれてきた頃、安達はすでに心のどこかで、自分が背伸びをしていることを自覚していた。
普段は立ち食い蕎麦やコンビニおにぎりで済ませる日々。だが、今日は違った。

リモピアットには、自家農園で採れたバジルを使った香り高いジェノベーゼ。
セコンドピアットのアクアパッツァは、キンメダイのふっくらした身と、旨みを吸い込んだオリーブが絶妙だった。
食後のエスプレッソは、本場の苦みと濃さに目が覚めるようだった。
「安達さん、今日は来てくれて嬉しかったよ」
職場では軽口を飛ばしてくる同僚、三鷹の声が、いつになく柔らかかった。
スーツのジャケットを脱ぎ、白いシャツの袖をまくったその腕に浮かぶ血管すら、どこか緊張を帯びて見える。
セコンドピアットのアクアパッツァは、キンメダイのふっくらした身と、旨みを吸い込んだオリーブが絶妙だった。
食後のエスプレッソは、本場の苦みと濃さに目が覚めるようだった。
「安達さん、今日は来てくれて嬉しかったよ」
職場では軽口を飛ばしてくる同僚、三鷹の声が、いつになく柔らかかった。
スーツのジャケットを脱ぎ、白いシャツの袖をまくったその腕に浮かぶ血管すら、どこか緊張を帯びて見える。

「実はさ……今日、ホテル、予約してあるんだ。一泊五万するスイート」
「…………え?」
「君と、ちゃんと向き合いたくて。今日、それを伝えたかった」
ナイフとフォークの音が、ぴたりと止まる。
テーブルに置いたスマホが震えた。
画面に表示されたのは、「藤森友和」の名前。
着信はすぐに切れたが、その一瞬で、頭の中に“藤森”の声が蘇った。
高円寺の夕暮れ、ベッドの高さを合わせてくれたあの日のことも、紫陽花の前でそっと手を伸ばしてくれたことも――すべて、同時に。
急な歩行器と手すり納品を快諾してくれた藤森。大至急住宅改修が必要となった手すり取り付けの現場調査も、すぐに対応してくれたのに……私、ありがとうも言えてない。
「…………え?」
「君と、ちゃんと向き合いたくて。今日、それを伝えたかった」
ナイフとフォークの音が、ぴたりと止まる。
テーブルに置いたスマホが震えた。
画面に表示されたのは、「藤森友和」の名前。
着信はすぐに切れたが、その一瞬で、頭の中に“藤森”の声が蘇った。
高円寺の夕暮れ、ベッドの高さを合わせてくれたあの日のことも、紫陽花の前でそっと手を伸ばしてくれたことも――すべて、同時に。
急な歩行器と手すり納品を快諾してくれた藤森。大至急住宅改修が必要となった手すり取り付けの現場調査も、すぐに対応してくれたのに……私、ありがとうも言えてない。

三鷹の目が揺れた。その視線を、直視できない。
「安達さん……」
「三鷹さん……だめなんです。ごめんなさい」
テーブルの下で、両手をギュッと握りしめた。
「嫌い」じゃない。でも「違う」と、心が言っていた。
「私、今……自分の気持ちも、仕事も、ちゃんと整理できてないんです」
涙が、静かに頬を伝う。
三鷹は黙ってその姿を見つめていた。
やがて、ゆっくりと、ほんの少し口角を上げた。
「……わかった。君の心が溶ける日を、待ってるよ」
その声は、驚くほど穏やかだった。
—
「安達さん……」
「三鷹さん……だめなんです。ごめんなさい」
テーブルの下で、両手をギュッと握りしめた。
「嫌い」じゃない。でも「違う」と、心が言っていた。
「私、今……自分の気持ちも、仕事も、ちゃんと整理できてないんです」
涙が、静かに頬を伝う。
三鷹は黙ってその姿を見つめていた。
やがて、ゆっくりと、ほんの少し口角を上げた。
「……わかった。君の心が溶ける日を、待ってるよ」
その声は、驚くほど穏やかだった。
—

タクシーの車内。
三鷹は何も言わず、安達を自宅の前まで送ってくれた。 その優しさが、また胸に痛かった。
帰宅後、スマホに残っていた着信履歴を開く。
そして、少し遅れて届いたLINE。
三鷹は何も言わず、安達を自宅の前まで送ってくれた。 その優しさが、また胸に痛かった。
帰宅後、スマホに残っていた着信履歴を開く。
そして、少し遅れて届いたLINE。

「お疲れさまです。佐藤様の歩行器と手すり、夕方納品完了しました。
岡田様の住改の現調も無事終了しました!」
LINEを確認して、すぐに折り返しの電話をかけた。
藤森からの言葉は、いつもと同じトーンだった。
「ちなみに歩行器ですが、通院用なので段差を乗り越えやすいタイプにしました。
あと、安達さんは保険適用の歩行車と適用外のシルバーカーの違いって、ご存知ですか?
歩行器の支持部ハンドルはU型で、身体を歩行車の中に入れて歩行することが大事なんです。保険適用外のシルバーカーはハンドルがT字型で、使用する方の身体が支持基底面からはみ出すので、保険適用外に……」
安達はそのまま、10分近くの“藤森解説”を聞きながら、小さく微笑んだ。
「ありがとう……本当に、助かりました。
私……今日、電話に出られなくて、ごめんなさい」
「いえいえ。きっと、忙しかったんだろうなって思いました。大丈夫です」
電話越しに伝わる声は、相変わらず、優しくて真っすぐだった。
岡田様の住改の現調も無事終了しました!」
LINEを確認して、すぐに折り返しの電話をかけた。
藤森からの言葉は、いつもと同じトーンだった。
「ちなみに歩行器ですが、通院用なので段差を乗り越えやすいタイプにしました。
あと、安達さんは保険適用の歩行車と適用外のシルバーカーの違いって、ご存知ですか?
歩行器の支持部ハンドルはU型で、身体を歩行車の中に入れて歩行することが大事なんです。保険適用外のシルバーカーはハンドルがT字型で、使用する方の身体が支持基底面からはみ出すので、保険適用外に……」
安達はそのまま、10分近くの“藤森解説”を聞きながら、小さく微笑んだ。
「ありがとう……本当に、助かりました。
私……今日、電話に出られなくて、ごめんなさい」
「いえいえ。きっと、忙しかったんだろうなって思いました。大丈夫です」
電話越しに伝わる声は、相変わらず、優しくて真っすぐだった。

その声に触れただけで、少しずつ胸のつかえがほどけていく。
けれど――ふとした瞬間に蘇る“あのテーブル越しの視線”が、
自分の中に微かな罪のように残っていた。
藤森は、電話を切ったあと、国分寺の自室でスマホをじっと見つめていた。
(彼女は、誰と、どこにいたんだろう)
そんな考えを振り払うように、彼は目を閉じた。
夜は静かに、けれど確かに、二人の距離に影を落としていた。
けれど――ふとした瞬間に蘇る“あのテーブル越しの視線”が、
自分の中に微かな罪のように残っていた。
藤森は、電話を切ったあと、国分寺の自室でスマホをじっと見つめていた。
(彼女は、誰と、どこにいたんだろう)
そんな考えを振り払うように、彼は目を閉じた。
夜は静かに、けれど確かに、二人の距離に影を落としていた。














