心が動く瞬間
2025.11.17
歩行器
手すり
第七話 里美の動揺

人物紹介
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安達里美杉並区高円寺の福祉事業所「ケアプランセンター愛」に勤める若手ケアマネジャー。
経験は浅いが、利用者や家族に真摯に向き合い、日々奮闘している。悩みや葛藤を抱えながらも、誰かの「ありがとう」に救われる繊細で誠実な女性。 -
藤森友和利用者の暮らしに寄り添う、福祉用具専門相談員。現場経験が豊富で、誠実な対応と丁寧な説明に定評がある。
穏やかな物腰の中に、まっすぐな情熱を秘めた人。安達にとって、仕事の支えであり、心の支えにもなっていく存在。 -
中森あゆみケアマネジャーを目指す実習生。素直で元気、好奇心旺盛な若者。感情表現が豊かで、周囲を明るくする存在。
学びに対して前向きで、吸収力が高い。
第七話
里美の動揺

阿佐ヶ谷の夜は、湿気を帯びた初夏の空気がまとわりつき、安達里美の胸の内もまた、その重さと同じだけ湿っていた。
築35年の1LDK。玄関のドアを閉める音が、ひときわ響く。
「……ただいま」
誰もいない部屋に向かってそう呟くと、スーツの上着を無造作に脱ぎ、洗面所で顔を洗った。
冷たい水が頬を叩いても、心のざわめきは一向に引かなかった。
鏡に映る自分の顔。表情は整っていても、どこか、壊れかけていた。
(あの時、どうして私は――黙っていたんだろう)
───
築35年の1LDK。玄関のドアを閉める音が、ひときわ響く。
「……ただいま」
誰もいない部屋に向かってそう呟くと、スーツの上着を無造作に脱ぎ、洗面所で顔を洗った。
冷たい水が頬を叩いても、心のざわめきは一向に引かなかった。
鏡に映る自分の顔。表情は整っていても、どこか、壊れかけていた。
(あの時、どうして私は――黙っていたんだろう)
───

午後三時半。
デイサービス帰りに立ち寄った「ケアプランセンター愛」。
その入り口に、花束を抱えた藤森友和の姿があった。
少し整えられた髪、真剣な眼差し。そして、どこかよそ行きの声。
「お忙しい中、すみません。川口さんに最後のご挨拶をしたくて……」
それは、彼の恩師でもあったケアマネジャー川口の退職を見送るための訪問だった。
藤森が“唯一、本気で叱ってくれて、でも最後まで信頼してくれた人”と語った相手。
安達は、その姿を黙って見つめていた。
彼の敬意と感謝が伝わってくるその背中が、少し眩しくて、どこか切なかった。
───
デイサービス帰りに立ち寄った「ケアプランセンター愛」。
その入り口に、花束を抱えた藤森友和の姿があった。
少し整えられた髪、真剣な眼差し。そして、どこかよそ行きの声。
「お忙しい中、すみません。川口さんに最後のご挨拶をしたくて……」
それは、彼の恩師でもあったケアマネジャー川口の退職を見送るための訪問だった。
藤森が“唯一、本気で叱ってくれて、でも最後まで信頼してくれた人”と語った相手。
安達は、その姿を黙って見つめていた。
彼の敬意と感謝が伝わってくるその背中が、少し眩しくて、どこか切なかった。
───

だが、次の瞬間。
空気が変わった。
「わぁ〜! 藤森さん! こんにちは♡」
明るい声と共に入ってきたのは、中森あゆみ。
今日から川口の後任として正式にケアマネとして配属された彼女は、ピンクのブラウスに白のフレアスカート、ふんわりと巻かれた髪。
そして――その無邪気な笑顔。
空気が変わった。
「わぁ〜! 藤森さん! こんにちは♡」
明るい声と共に入ってきたのは、中森あゆみ。
今日から川口の後任として正式にケアマネとして配属された彼女は、ピンクのブラウスに白のフレアスカート、ふんわりと巻かれた髪。
そして――その無邪気な笑顔。

「これから私が担当になりますっ! よろしくお願いしますっ!」
そう言いながら、藤森の手をぎゅっと握った。
笑顔を崩さず、迷いもなく、まるで“当然の流れ”であるかのように――
その瞬間、安達の身体の中で、何かが小さく、しかし確かに音を立てて割れた。
(なに……それ。)
声にならなかった。
いや、出せなかった。
藤森が苦笑しながら応じている姿を見て、何も言えなかった。
自分だけが“特別”だと思っていたわけじゃない。
でも、まるでそれを否定されたような気がした。
───
そう言いながら、藤森の手をぎゅっと握った。
笑顔を崩さず、迷いもなく、まるで“当然の流れ”であるかのように――
その瞬間、安達の身体の中で、何かが小さく、しかし確かに音を立てて割れた。
(なに……それ。)
声にならなかった。
いや、出せなかった。
藤森が苦笑しながら応じている姿を見て、何も言えなかった。
自分だけが“特別”だと思っていたわけじゃない。
でも、まるでそれを否定されたような気がした。
───

夜、自宅の部屋で、ソファに深く沈み込む。
天井をぼんやり見つめながら、何度も思い返してしまう――あの瞬間。
中森の声、藤森の笑顔。握られた手。笑い声。
「中森さんて、前から藤森さんに気があったんだっけ?」
自分に問いかける。
答えは、心のどこかで分かっていた。
(あの子、最初から狙ってた……)
実習中、何度か一緒に現場に行ったときも、中森はやたらと藤森に関心を持っていた。
「藤森さんって、ああ見えて優しそう」「安達先輩と仲良いって噂、ほんと?」
そのたびに苦笑して流してきたけど――
(……あれは全部、伏線だったの?)
天井をぼんやり見つめながら、何度も思い返してしまう――あの瞬間。
中森の声、藤森の笑顔。握られた手。笑い声。
「中森さんて、前から藤森さんに気があったんだっけ?」
自分に問いかける。
答えは、心のどこかで分かっていた。
(あの子、最初から狙ってた……)
実習中、何度か一緒に現場に行ったときも、中森はやたらと藤森に関心を持っていた。
「藤森さんって、ああ見えて優しそう」「安達先輩と仲良いって噂、ほんと?」
そのたびに苦笑して流してきたけど――
(……あれは全部、伏線だったの?)

スマホの通知が鳴る。
画面には、《中森 あゆみ》という表示。
《先輩〜! 今日めっちゃ緊張したけど、藤森さんとお話できてうれしかった〜!
先輩ってほんと見る目あるよね♡》
(……見る目?)
なぜ、私がそんなこと言われなきゃいけないの?
藤森に想いを寄せているなんて、誰にも言ってない。
けれど――誰にも言ってないからこそ、
その思いは、どこにも逃げ場がなくなっていた。
(どうして私は、今日“お疲れさまです”のひとことすら、彼に送れなかったんだろう)
胸が、締めつけられる。
見てしまった。あの笑顔を。
その後のLINEも、手も、まるで水面下で流れる温度に、自分だけが気づかないふりをしていたみたいに。
彼のことを、一番近くで見ていたはずなのに――
画面には、《中森 あゆみ》という表示。
《先輩〜! 今日めっちゃ緊張したけど、藤森さんとお話できてうれしかった〜!
先輩ってほんと見る目あるよね♡》
(……見る目?)
なぜ、私がそんなこと言われなきゃいけないの?
藤森に想いを寄せているなんて、誰にも言ってない。
けれど――誰にも言ってないからこそ、
その思いは、どこにも逃げ場がなくなっていた。
(どうして私は、今日“お疲れさまです”のひとことすら、彼に送れなかったんだろう)
胸が、締めつけられる。
見てしまった。あの笑顔を。
その後のLINEも、手も、まるで水面下で流れる温度に、自分だけが気づかないふりをしていたみたいに。
彼のことを、一番近くで見ていたはずなのに――

不意に、窓の外から電車の音が聞こえた。
中央線が、高円寺駅を通過していく。
(……今ごろ、藤森さんは国分寺の家に帰ってるのかな)
きっと、疲れてるだろうに。
今日だって、急な歩行器と手すりの納品にも対応してくれたのに。
彼のことを、一番近くで見ていたはずなのに――
中央線が、高円寺駅を通過していく。
(……今ごろ、藤森さんは国分寺の家に帰ってるのかな)
きっと、疲れてるだろうに。
今日だって、急な歩行器と手すりの納品にも対応してくれたのに。
彼のことを、一番近くで見ていたはずなのに――

(私は、私の気持ちすら、ちゃんと見られてなかった)
言えなかった想いが、枕元で重く沈んでいた。
今夜だけは、自分の弱さと、嫉妬と、そして――誰かを本気で好きになったことを、
ちゃんと認めなければならない気がした。
そして、安達里美はそっと目を閉じた。
心の奥で、静かに、しかし確かにこう呟いた。
(……私は、私のやり方で、あの人に届きたい
言えなかった想いが、枕元で重く沈んでいた。
今夜だけは、自分の弱さと、嫉妬と、そして――誰かを本気で好きになったことを、
ちゃんと認めなければならない気がした。
そして、安達里美はそっと目を閉じた。
心の奥で、静かに、しかし確かにこう呟いた。
(……私は、私のやり方で、あの人に届きたい








